- 時期
- 1595–1680年
- 地域
- イタリア(ローマ・ボローニャ)、フランス
- 時代
- バロック・ロココ
古典主義
17世紀のローマとフランスで、古代の彫刻とラファエロを手本に、明快な構図と理想化した人体で物語を描いた絵画の流れ。カラッチに始まり、ドメニキーノを経て、ローマに住んだフランスの画家プッサンが理知的な画面に高めた。
解説OVERVIEW
定義と時代背景
古典主義という語は、古代の美術に範をとる傾向を広く指すが、ここでは17世紀の絵画の古典主義を扱う。メトロポリタン美術館の解説によれば、ボローニャのカラッチ一族は、マニエリスムの作為を退けて自然の観察に立ち返り、北イタリアのルネサンスの画家に学んだ。1595年、アンニーバレ・カラッチはファルネーゼ家に招かれてローマへ移り、古代彫刻とミケランジェロ、ラファエロに直接触れて画風を変える。北イタリアの自然主義とローマ絵画の理想化を結びつけた彼の芸術は、一族がボローニャに開いた画塾で学んだドメニキーノ、グイド・レーニらに受け継がれ、17世紀の絵画を主導する力となった。
造形上の特徴
同館の解説によれば、ドメニキーノは、ポーズをとらせたモデルの習作から構図を始めながら、自然は出発点にすぎず、日々の不完全さやうつろいを越えた高い次元へ移さなければならないと考えた。古代彫刻に比例と人体の理想化を学び、定まった身ぶりで感情を伝え、絵画を「もの言わぬ詩」とみなした。ニコラ・プッサンは、人物を前景と平行な層に並べる整然とした構図をとり、蠟の人形を置いた小さな舞台で配置を考えたとされる。理想化した人体、くっきりした線、抑えた身ぶり、整然とした構図が見分ける手がかりになる。
代表画家と代表作
アンニーバレ・カラッチのファルネーゼ宮の天井画は、1600年の公開と同時に、過去のどの作品にも劣らないと称賛された。ドメニキーノは1612年から1615年にローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会で聖チェチーリアの生涯を描き、《聖ヒエロニムスの最後の聖体拝領》(1614年)を残した。その雰囲気に満ちた風景画は、クロード・ロランの理想的な風景画の土台となる。プッサンの晩年の《エジプトへの逃避》(1657年)は、古代の浮き彫りやラファエロから人物の姿勢を借り、対角線で画面を聖と俗に分けた例である。
前後の流派との関係
同じころのローマでは、カラヴァッジョがイタリア・バロック絵画に新しい写実をもたらしたが、メトロポリタン美術館によれば、過去の芸術と対決するような彼に対し、カラッチは過去を取り込み、1630年までにはカラヴァッジョ風の絵は衰えて、カラッチの芸術が新しい世代に学ばれていた。フランスでは1648年に王立絵画彫刻アカデミーが設けられ、1667年には画家シャルル・ル・ブランがプッサンの《マナの収集》を講じるなど、その作品がアカデミック美術の教育で手本として論じられた。18世紀末の新古典主義のジャック=ルイ・ダヴィッド、のちにはポール・セザンヌもプッサンに深く学んだ。