
アントン・ヨーゼフ・トルチカ撮影の肖像写真、1914年
Wikimedia Commons / Public domain- 生没年
- 1862–1918年
- 国籍
- オーストリア
グスタフ・クリムト
1862年にウィーン郊外で生まれ、1918年に同地で没した画家。装飾画家として出発し、金箔と文様を用いた官能的な女性像で、世紀末ウィーンを代表する存在となった。
略歴BIOGRAPHY
生涯
1862年7月14日、ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれた。父エルンストはボヘミア出身の彫金師で、家は貧しかった。14歳で工芸学校に入り、1880年には弟エルンストとフランツ・マッチュと「芸術家商会」を組んで、劇場や公共建築の装飾を手がける。1888年にはブルク劇場の壁画で皇帝から金功労十字章を受けた。1894年に依頼されたウィーン大学大講堂の天井画《哲学》《医学》《法学》は、1900年前後に発表されると猥褻だと非難され、以後、公共の注文から離れる。1897年にアール・ヌーヴォーの流れをくむウィーン分離派を結成して初代会長となり、1905年に仲間とともに脱退した。1918年2月6日、脳卒中のあと肺炎で没した。
様式の変遷
初期は歴史主義の装飾画で、写実の腕を買われた。1890年代後半から画面は平らになり、文様が人物と同じ比重を持ちはじめる。1898年の《パラス・アテナ》以降は金箔を貼る「黄金様式」に入り、金地の上に幾何学と植物の文様を敷きつめ、そこから顔と手だけを写実的に浮かび上がらせた。父と弟の金工の仕事、ビザンティンのモザイク、日本の工芸からの示唆が重なる。
代表作
《ユディトI》(1901年、ベルヴェデーレ美術館)、《ベートーヴェン・フリーズ》(1902年)、《女の三世代》(1905年、ローマ国立近代美術館)、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907年、ノイエ・ギャラリー)、《接吻》(1907〜1909年頃、ベルヴェデーレ美術館)、最晩年の《扇を持つ女》(1917〜1918年、個人蔵)が知られる。
影響
分離派の機関誌『ヴェル・サクルム』と展覧会を通じて、装飾と絵画を隔てない考え方をウィーンに根づかせた。若いエゴン・シーレとオスカー・ココシュカを支え、二人はクリムトの装飾性を踏み台に表現主義へ進む。生涯の伴侶とされる服飾家エミーリエ・フレーゲとの仕事も含め、その画面は世紀末ウィーンの美術と生活を結ぶ。