
フレデリック・レイトン《自画像》1880年、ウフィツィ美術館
Wikimedia Commons / ウフィツィ美術館 / Public domain- 生没年
- 1830–1896年
- 国籍
- イギリス
フレデリック・レイトン
1830年にスカーバラで生まれ、1896年にロンドンで没した画家・彫刻家。古代ギリシアに範をとった人物像で知られ、1878年から没年までロイヤル・アカデミー会長を務めた。
略歴BIOGRAPHY
生涯
1830年12月3日、イングランド北東部の海辺の町スカーバラに医師の家の子として生まれた。少年期から一家でヨーロッパ各地を移り、フィレンツェの美術アカデミーと、フランクフルトのシュテーデル美術学校でエドゥアルト・フォン・シュタインレに学ぶ。ローマでは風景画家ジョヴァンニ・コスタと交わり、1855年から1859年まではパリに住んでアングル、ドラクロワ、コロー、ミレーと会った。1860年にロンドンへ移る。1864年に王立美術院の准会員、1868年に正会員となり、1878年から没するまで会長を務めた。同じ年にナイト、1886年に准男爵、1896年1月24日には画家として初めて男爵に叙されたが、その翌日にケンジントンで没した。爵位は一日で絶え、歴史上もっとも短い貴族位となった。葬儀はセント・ポール大聖堂で営まれた。
様式の変遷
24歳で描いた、チマブーエの《聖母》(いまはドゥッチョの作とされる《ルチェッライの聖母》)がフィレンツェの街を練り歩く場面の大作は、1855年のロイヤル・アカデミー展でヴィクトリア女王に600ギニーで買い上げられ、一躍名を知られた。1860年代以降は物語を語ることよりも、人物の姿と衣の流れそのものに関心を移す。古代ギリシアやローマに範をとった女性像を繰り返し描き、色と形の調和を目的とする唯美主義の画家たちと歩みをともにした。晩年の《フレイミング・ジューン》(1895年、ポンセ美術館)はその到達点である。彫刻にも手を広げ、《蛇と格闘する運動選手》(1877年)はイギリス近代彫刻の出発点とされる。
影響
ロンドンのケンジントンにジョージ・エイチソンの設計で建てた自邸は、1877年から1879年にかけて中東の陶板で飾るアラブ・ホールが加えられ、唯美主義の室内そのものを今に伝える。1929年から一般に公開され、レイトン・ハウスの名で知られる。没後はヴィクトリア朝絵画全体とともに評価が沈み、20世紀半ばには作品が二束三文で売られた。再評価が進んだのは20世紀後半で、今日では19世紀イギリス絵画の中心にふたたび置かれている。