《地獄のダンテとウェルギリウス》
赤く燃える空の下、二人の亡者が取っ組み合い、一方が相手の首に噛みつく。詩人ダンテと案内役のウェルギリウスがそれを見つめる。甘美な女性像で知られるブグローが、ただ一度だけ描いた凄惨な画面である。
概要
《地獄のダンテとウェルギリウス》(仏: Dante et Virgile)は、ウィリアム・アドルフ・ブグローが1850年に描いた油彩画である。縦280.5センチ、横225.3センチ。パリのオルセー美術館が所蔵する。ダンテの『神曲』に取材した歴史画で、アカデミック美術の枠内にありながら、画家の生涯でただ一度、恐怖を正面から扱った作品である。
画面の読み解き
主題は『神曲』地獄篇第三十歌、偽造者が落とされる第八圏の底である。赤い衣のダンテと、月桂冠をいただき白い衣をまとうウェルギリウスが左に立ち、二人の亡者の格闘を見下ろす。相手の首に噛みついているのが、他人になりすまして遺産を横取りしたジャンニ・スキッキ、噛まれているのが錬金術師カポッキオである。背後には蝙蝠の翼を広げた悪魔がうずくまり、さらに奥には折り重なる亡者の群れが赤黒い闇に沈む。前景の地面にも、すでに倒れた者の顔がのぞく。
技法・様式
筋肉は解剖の正確さを超えて引き伸ばされ、腱と血管が浮き上がる。強い明暗で人体を闇から切り出す扱いは、ミケランジェロの人体観と、ウィリアム・ブレイクやフュースリといったロマン主義の幻想画家たちの系譜に通じる。一方で、輪郭を閉じ、筆跡を残さずに肌を仕上げる手つきは、エコール・デ・ボザールで身につけたものである。理想化と写実のあいだで人体をどこまで押せるかを試した画面といえる。
来歴
1850年のサロンに出品された。ブグローは1848年と1849年のローマ賞に落ちており、本作は三度目の挑戦で首席を分け合った年の作にあたる。批評家テオフィル・ゴーティエは「力がある、まれな美点だ」と評した。その後は長く画家の家系にとどまり、2010年に相続税の物納によってフランス国家に渡り、オルセー美術館の所蔵となった。所蔵番号RF 2010 8。
意義
ブグローはこののち、恐怖や凄絶さを主題にすることは二度となく、聖母子や田園の少女、神話の女性像を磨き上げた仕上げで描き続けた。それだけに本作は画業の中で孤立して見える。20世紀を通じて忘れられていたアカデミック美術が見直されるなかで再発見され、現在はオルセー美術館で印象派の作品と同じ館内に並んでいる。