《ルッカの聖母》
ヤン・ファン・エイクが1437年頃に描いた板絵。天蓋のついた玉座に座る聖母マリアが、膝の上の幼子イエスに乳を与える。縦65.7センチの小さな画面に、布や金属、ガラスの質感と室内の光が細部まで描き分けられている。
概要
《ルッカの聖母》(独: Lucca-Madonna)は、ヤン・ファン・エイクが1437年頃に描いた板絵である。天蓋のついた玉座に座る聖母マリアが、膝の上の幼子イエスに乳を与える姿を、狭い室内に描いている。縦65.7センチ、横49.6センチの小さな画面で、個人の祈りのための礼拝画として描かれたと考えられている。19世紀にルッカ公の収集にあったことからこの名で呼ばれる。初期フランドル派を代表する画家の円熟期の作品で、シュテーデル美術館が所蔵する。
来歴
注文主はわかっていない。ファン・エイクは作品に署名や年記を入れることが多かったが、本作にはそれがなく、記されていたかもしれない元の額も失われている。19世紀の初めにはイタリアのルッカにあり、ルッカ公カルロ・ルドヴィーコ(のちのパルマ公カルロ2世)の収集に入った。1840年代にドイツの美術史家ヨハン・ダーフィト・パッサヴァントがファン・エイクの作と認め、1841年にブリュッセルの画商が購入、1843年にオランダ王ウィレム2世に売られた。王の没後、その収集が競売にかけられた1850年に、シュテーデル美術館がほかのヨーロッパの美術館と競り合って落札した。
画面の読み解き
聖母は、真鍮の獅子の像を四隅に載せた木の玉座に座る。頭上には、青地に緑と金の唐草模様を織り出した布の天蓋が張られている。深紅の大きなマントは膝から床へピラミッドのように広がり、その裾は真珠と宝石、金の刺繍で縁取られる。聖母は目を伏せて幼子を見つめ、幼子は母の腕をつかみ、足を母の体に突っ張って乳を飲む。その左手には小さな果実が握られている。左の窓辺には二つの果実が置かれ、右の壁の棚には空の燭台とガラスの水差し、その下には水を張った真鍮の鉢がある。床の青と白のタイルの上に、色鮮やかな絨毯が玉座の台を覆う。
身近な事物には信仰の意味が込められている。獅子で飾られた玉座は、12頭の獅子を並べたという旧約聖書のソロモン王の玉座を思わせ、聖母を「知恵の座」とみなす伝統に基づく。窓辺の果実はリンゴともオレンジとも見えるが、いずれも楽園を暗示する。水差しの影の中には、水を通った光が落ちている。ガラスを割らずに光が通るように、聖母が純潔のまま子を宿したことの喩えと読まれてきた。乳を与える聖母の姿(授乳の聖母)は、神の子が人の体を持って生まれたことを示している。
技法・様式
3枚のオーク材を縦に継いだ板絵で、シュテーデル美術館は油彩を主とする混合技法としている。ファン・エイクは絵具を薄く重ねて、布の毛並み、金属の輝き、ガラスの透明感を描き分けた。マントの赤は、下に朱を塗り、その上に透明な暗い赤を重ねるグレーズによって、深みと輝きを保っている。X線と赤外線による調査では、当初は天井が平らで、玉座の台には二段の段があり、絨毯も無かったことがわかっている。画家は描き進めながら、平らな天井をリブで支える丸天井に変え、絨毯を描き加えて、部屋の奥行きを強めていった。天井や絨毯は画面の縁で断ち切られ、見る者の目の高さは聖母の膝のあたりに置かれている。見る者は、同じ小部屋に入って聖母を見上げているように感じる。
意義
本作は、《ヘントの祭壇画》を完成させた1432年から没年の1441年までに描かれた、ファン・エイクの現存する聖母子像6点の一つである。寄進者を描き込んだ《宰相ロランの聖母》(ルーヴル美術館)などと違い、画面には聖母子のほかに誰もおらず、見る者がじかに向き合う礼拝画となっている。日常の室内の事物に信仰の意味を込め、光と質感をかつてない精度で描き分けた本作は、初期フランドル派の写実の到達点を示し、シュテーデル美術館の収蔵品の中でも特に重要な作品とされる。