《聖マタイの殉教》
- 作者
- カラヴァッジョ
- 制作年
- 1599–1600年
- 素材
- キャンバス / 油絵具
- 寸法
- 323 × 343 cm
- 時代
- バロック・ロココ
- 流派
- イタリア・バロック絵画
暗い堂内で、白い衣のマタイが祭壇の前に倒れ、腰布だけの若者が剣を手に覆いかぶさる。雲に乗った天使がシュロの葉を差し出し、周りの人々は叫び、逃げまどう。奥では一人の男が振り返ってこちらを見る。
概要
《聖マタイの殉教》は、カラヴァッジョが1599年から1600年に描いた油彩の宗教画で、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会のコンタレッリ礼拝堂に、祭壇に向かって右の壁に掛けられている。キャンバスに油彩で、大きさは縦323センチ、横343センチとされる。トレッカーニの『イタリア人名辞典』によれば、画家は1599年7月23日から1600年7月4日までのあいだに、本作と向かいの壁の《聖マタイの召命》を仕上げた。日本語版ウィキペディアによれば、教会の礼拝堂を飾る、画家にとって初めての公の仕事だった。
画面の読み解き
祭壇へ上る段の前で、白い衣のマタイが仰向けに倒れ、腰布だけの若者が剣を握って片手でマタイの手首をつかむ。マタイは血を流しながら、雲に乗って舞い降りた天使が差し出すシュロの葉へ手を伸ばす。日本語版ウィキペディアが引く研究によれば、画家はマタイがミサの後に洗礼を授けているところを襲われたとし、殉教の刹那に勝利のシュロを受け取る瞬間を描いた。手前の大きな洗礼槽には左下の人物が片足を入れ、裸に近い人物たちは洗礼の志願者で、マタイを襲う若者も、志願者を装って紛れ込んだ刺客のように表されている。右では白い服の少年が叫びながら逃げ、左には羽根飾りの帽子の若者や老人が身を引く。画面の一番奥で振り返ってこちらを見る髭の男は、画家の自画像とされる。
技法・様式
『イタリア人名辞典』によれば、X線写真には最初の構図が残っており、人物は完成作より小さく、背景には建物の廃墟が見えた。画家は試行を重ねて描き直し、完成作では、奥から現れる半裸の刺客を中心に据えた、より動きのある構成と、光の劇的な扱い(テネブリズム)に置きかえた。日本語版ウィキペディアによれば、最初の構図は、寄進者コンタレッリの残した指示書(祭服を着てミサを挙げるマタイが、神殿のような場所で兵士に殺される)に従っていた。完成作では神殿風の建物は断念され、人物が前景に引き寄せられた。マタイのポーズとそばで叫ぶ少年は、ティツィアーノの祭壇画《殉教者聖ピエトロの死》(19世紀に焼失)に倣ったとみられる。
来歴
日本語版ウィキペディアによれば、礼拝堂は、フランス人の枢機卿マシュー・コワントレル(イタリア名マッテオ・コンタレッリ)が1565年に自身の墓所として権利を得たもので、自分の名の聖人マタイの物語で飾るよう遺言した。最初に頼んだ画家は手をつけず、次のカヴァリエル・ダルピーノも天井画を描いただけで中断した。1599年7月、コンタレッリの遺言執行者の息子と教会側が合意し、カラヴァッジョに《召命》と本作の二つの大きなキャンバス画を任せた。装飾は1600年の聖年に向けた事業の一つだった。本作は今も同じ礼拝堂の右の壁に掛かっている。
意義
日本語版ウィキペディアによれば、《召命》と本作は公開されるや大評判となり、カラヴァッジョは一躍ローマで最も名の知られた画家の一人となった。一方、『イタリア人名辞典』によれば、枢機卿オッターヴィオ・パラヴィチーノは1603年、画家が教会のために描く絵を「信心と俗のあいだ」にあると皮肉っている。礼拝堂には、のちに中央の祭壇画《聖マタイと天使》が加わり、三点がそろった。