《ウラジーミル街道》
曇り空の下、草原を貫いて白っぽい土の道が地平線へまっすぐのびる。道ばたには里程標の柱が立ち、遠くを人影がひとつ歩いていく。遠景の森の向こうに白い教会がかすかに見える。
概要
《ウラジーミル街道》(露: Владимирка、ウラジーミルカ)は、イサーク・レヴィタンが1892年に描いた油彩画である。縦82.5センチ、横127センチ。トレチャコフ美術館が所蔵する。モスクワから東へのびるウラジーミル街道は、俗に「ウラジーミルカ」と呼ばれ、長いあいだ流刑囚がシベリアへ歩かされた道だった。所蔵館は、同時代の人々の目にこの道が政治体制の不正と人々の運命の悲劇を表すものと映ったと解説し、本作をレヴィタンの画業の中心となる作品の一つに数える。
画面の読み解き
画面の下半分を草原が占め、手前から白っぽい土の道が中央へまっすぐのび、地平線の手前で細くなって消える。道の脇には、轍のような細い踏み分け道が左右に分かれていく。右手の道ばたには、小さな屋根をのせた里程標の柱が一本立ち、その少し手前を、黒い服の人影がひとつ歩いている。遠景には低い森が帯のように横たわり、左寄りの奥に白い教会が小さく光る。上半分は灰色の雲に覆われた空で、ところどころに白い雲が浮かぶ。右下の隅には、画家の署名がある。所蔵館は、本作が鎖の音も、流刑囚の列が巻き上げる砂ぼこりも描かず、どこまでものびる道を持つ典型的なロシアの風景画として、古い民謡のように人の苦い運命を歌うと述べる。
技法・様式
色は空の灰色、草原のくすんだ緑、道の白っぽい土色にほぼ絞られ、人影や柱、教会はごく小さく描かれる。地平線は画面の中ほどより少し下に置かれ、空が画面の半分以上を占める。道は画面の下端いっぱいの幅から地平線の一点へと細まり、見る者の目を遠くへ導く。草むらや道の小石は短い筆の運びで描き分けられている。
制作の経緯
1892年5月、レヴィタンは画家ソフィヤ・クフシンニコワとともにウラジーミル県へ移り、ペクシャ川のほとりのゴロドク村に夏まで滞在した。クフシンニコワの回想によれば、狩りの帰りに古い街道へ出たとき、レヴィタンはそれが流刑囚の通ったウラジーミルカだと気づき、その後何度も通って習作を描いた。完成作はモスクワのアトリエで描かれ、画家はふだんしない題の書き込みを画面に残した。所蔵館は、この年にモスクワとモスクワ県からユダヤ人を追い出す措置がとられ、すでに名の知れた画家だったレヴィタンも都を離れるよう命じられたことに触れ、本作の社会的な主題をこの時期の画家の境遇と結びつける。友人たちの嘆願で、レヴィタンは年末にモスクワへ戻ることができた。
来歴
1893年2月、サンクトペテルブルクで開いた第21回移動派展(移動展覧会協会展)に「ウラジーミルカ、大きな道」の題で出品され、3月にはモスクワへ巡回した。展覧会のあいだに買い手はつかず、所蔵館によれば、画家は作品の社会的な意味を自覚して、1894年にパーヴェル・トレチャコフに贈った。所蔵番号はИнв.1485。
意義
画家ミハイル・ネステロフは、道と里程標だけの簡素な画面が「単なる風景ではなく歴史画だ」と書いた。ロシア美術館は、《淵にて》(У омута、1892年)と本作に続く《永遠の安らぎの上に》(Над вечным покоем、1894年、トレチャコフ美術館)を、「人生のドラマ」という主題で結ばれた風景画の到達点と位置づける。人の姿をほとんど描かない風景に、土地の歴史と人々の苦しみを重ねた作品である。