《洗礼者聖ヨハネ》
深い闇の中から、長い巻き毛の若者が半身を現す。右手の人差し指で天を指し、首をかしげてこちらを振り返り、謎めいた笑みを浮かべる。左手は胸もとに添えられ、肩の向こうに細い十字架がのぞく。
概要
《洗礼者聖ヨハネ》(仏: Saint Jean Baptiste)は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1508〜1519年頃に描いた油彩画である。縦72.9センチ、横56.3センチのクルミ材の板に描かれ、パリのルーヴル美術館が所蔵する。キリストに洗礼を授け、その到来を告げた預言者ヨハネを、暗い背景から浮かび上がる若者の半身像として描いた。所蔵館によれば、構想はおそらく1508年頃で、画家は亡くなる1519年まで手もとに置いて少しずつ描き進め、なお未完のまま残した。
画面の読み解き
闇の中で、長い巻き毛の若者が体を右へ向け、頭だけをこちらへ振り返らせて笑みを浮かべる。右腕は胸の前を横切って高く上がり、人差し指がまっすぐ天を指す。左手は胸もとに添えられ、その背後には細い十字架の先が闇の中にかすかに見える。腰のあたりには斑点のある毛皮をまとう。所蔵館によれば、胴と腕は右へ、顔は左へ向いて優美な螺旋を描き、光は深い夜の中から聖人の体をそっと浮かび上がらせて、その動きに揺らめく炎のような姿を与えている。
技法・様式
所蔵館によれば、画家は身ぶりよりも光と影の効果に表現を託し、とりわけ繊細なスフマートによって人物の表現の力を引き出した。ほとんど色を使わない、きわめて切りつめた手段によるキアロスクーロがこの作品の要である。赤外線反射撮影と蛍光X線分析からは、画家が少なくとも3度、体の輪郭を動かしたことがわかる。最初の胴はもっと正面を向き、次にいっそう右へ回され、最後にその中間に落ち着いた。右手の親指は当初、中指に触れており、額にかかる髪の房はあとから描き加えられた。2015〜2016年の修復で厚く黄ばんだワニスが薄められ、右の肘と前腕、左腕は描きかけのまま残された部分だとわかった。古いワニスの層を一部残したため、画面の光はいまも黄色みを帯びている。
来歴
所蔵館によれば、制作の事情はわかっておらず、注文主がいたのか、画家自身の構想だったのかも不明である。1516年に画家がフランスへ持っていき、1517年10月にアンボワーズのクルーの館でアラゴンの枢機卿に見せた「若い洗礼者聖ヨハネ」は、本作とみるのが妥当とされる。1518年に国王フランソワ1世が買い取った可能性が高いが、その後、経緯は不明ながら王室の収集を離れた。1620年代にはリアンクール公ロジェ・デュ・プレシの手にあり、公はこれをイングランド国王チャールズ1世に贈った。1639年に完成した同王の収集目録が本作の最初の確かな記録で、板の裏には王の焼き印が押されている(X線写真でのみ見える)。王の処刑後、1651年の共和国政府の売り立てを経て銀行家エーヴェルハルト・ヤーバッハの手に渡り、1662年にルイ14世が購入した。革命期まで王室の収集に残り、1801年からルーヴル美術館で公開されている。所蔵番号INV 775。現在はドノン翼のグランド・ギャラリー(第710室)に展示されている。
意義
所蔵館によれば、本作は《モナ・リザ》や《聖アンナと聖母子》と同じく、画家が体の理想的なひねりと、光と影を極めた表現を追い求めた実験的な作品だった。聖人がまとう斑点のある毛皮は、聖書が伝えるラクダの毛衣ではなく、ヒョウやオオヤマネコのような野生の獣のもので、当時としては例がなく、酒の神バッカスの衣に重ねて解釈されてきた。19世紀には作家テオフィル・ゴーティエが、その笑みに悪魔的な響きを読み取った。一方で所蔵館は、ヨハネを「光についてあかしをする」者と記すヨハネによる福音書の冒頭と本作を結びつけた美術史家ポール・バロルスキーの読みに与し、振り返る聖人の笑みに、近づく救いの夜明けの約束を見ている。1518年にジャン・クルーエが描いた《洗礼者聖ヨハネに扮したフランソワ1世の肖像》(ルーヴル美術館)には、本作の影響がはっきり表れている。