《聖エラスムスと聖マウリティウス》
- 作者
- マティアス・グリューネヴァルト
- 制作年
- 1520–1524年
- 素材
- 板(リンデン材) / 油絵具
- 寸法
- 226 × 176 cm
- 所蔵
- アルテ・ピナコテーク
- 時代
- ルネサンス
- 流派
- 北方ルネサンス
金の祭服に宝石を飾った司教冠の聖エラスムスと、銀の甲冑をまとった黒い肌の聖マウリティウスが向かい合う。二人の背後には、白髪の修道院長と兵士たちが控える。
概要
《聖エラスムスと聖マウリティウス》は、ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトが1520年から1524年ごろに描いた板絵で、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークが所蔵する。館の記録では、リンデン材の板に描かれ、縦226センチ、横176センチ。所蔵番号は1044で、館の上階の第2室に展示されている。いまの額は、1927年にミュンヘンのゲオルク・ウルリヒが作ったもの。館によれば、マインツ大司教で選帝侯のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(1490〜1545年)が、ハレの新しい参事会聖堂(ノイエ・シュティフト)のために描かせた。日本語版ウィキペディアは、本作を画家の晩年の傑作とする。
画面の読み解き
館の解説によれば、聖エラスムスはアンティオキアの司教で、303年にディオクレティアヌス帝のもとで、とりわけ残酷な殉教を遂げた。巻き上げ機で腸を体から引き出されたのである。聖マウリティウスは、テーベ軍団の長として殉教した。画面の左には、金の模様の祭服を着て宝石で飾った司教冠をかぶった聖エラスムスが立ち、右手に殉教を示す、腸を巻き取った道具を持つ。向かいには、銀の甲冑をまとった黒い肌の聖マウリティウスが立つ。日本語版ウィキペディアによれば、聖マウリティウスは手を挙げて聖エラスムスに挨拶しており、聖エラスムスの背後には学者で大司教の相談役の白髪の修道院長が、聖マウリティウスの背後には兵士たちがいる。同じ記事は、伝説では、マウリティウスはキリスト教徒の兵士だけからなるエジプトのテーベ軍団を率い、ディオクレティアヌス帝の迫害に加わるのを拒んで、軍団とともに殺されたと説明する。司教の足もとには、3つの紋章を並べた飾りが見える。
技法・様式
日本語版ウィキペディアは、描かれた4人の人物の姿勢、動き、衣服、顔の表情、肌の色が、中世の社会のさまざまな階層を見事に描き分けているとする。館によれば、聖エラスムスの顔は、注文主アルブレヒトの面立ちを写している。
注文主
館はアルブレヒトを、マクデブルク大司教、ハルバーシュタットの管理者、マインツ大司教で選帝侯と紹介する。日本語版ウィキペディアによれば、アルブレヒトは聖エラスムスを崇敬しており、聖マウリティウスは当時ハレで崇敬がよみがえった聖人だった。アルブレヒトは1518年に教皇レオ10世から枢機卿に任じられ、のちに宗教改革の強い反対者となった。
来歴
館によれば、本作は1540年までハレの参事会聖堂にあり、宗教改革のさなかにアシャッフェンブルクへ移された。1814年にアシャッフェンブルクの城の画廊からいまの所蔵に入り、1836年からアルテ・ピナコテークにある。日本語版ウィキペディアは、アシャッフェンブルクで本作が置かれたのを、聖ペトロと聖アレクサンドロスの参事会聖堂とする。
意義
日本語版ウィキペディアは、ヨーロッパの聖職者の指導者とアフリカの兵士の指導者のこの出会いを、教会と政治の世界的な出会いとみて、二つの大陸にわたるカトリック教会の力と栄光を示すものと読んでいる。同じ画家の作品には、シュトゥッパハのマリア戴冠教会の《シュトゥッパハの聖母》がある。