《ハルピュイアの聖母》
怪物を刻んだ台座の上に、幼子を抱いた聖母が立つ。両脇の小さな天使が聖母の足を支え、左には十字架を持つ聖フランチェスコ、右には赤い外套で書物を抱える福音書記者ヨハネが立つ。
概要
《ハルピュイアの聖母》は、フィレンツェの画家アンドレア・デル・サルトが1517年に描いた油彩の祭壇画で、ウフィツィ美術館が所蔵する。館の記録では縦207センチ、横178センチの板絵で、所蔵番号は1890 n. 1577。館の正式な題は「アッシジの聖フランチェスコと福音書記者聖ヨハネのあいだの聖母子」である。館の第2階の第3廊下の先に設けられた、アンドレア・デル・サルトと16世紀初めのフィレンツェの画家たちの展示室(A41室)で、奥の壁を占める中心作として展示されている。台座には「AND. SAR. FLOR. FAB.」の署名と、1517年(MDXVII)の年記を含むラテン語の銘が記されている。
画面の読み解き
館の解説によれば、伝統的な題は、聖母の台座に刻まれた怪物をヴァザーリがハルピュイアとみなしたことに由来する。しかし今日の研究者の多くは、絵に終末論的な象徴を読み取り、この怪物をヨハネの黙示録に記されたいなごの姿と考えている。そのヨハネは、まさに予言を書き記す者として聖母の隣に描かれている。黙示録の第9章によれば、女の顔と鉄の胸当てのような胴を持つこの怪物は、底なしの淵の穴から煙とともに現れ、額に神の印であるタウを持たない人々を苦しめる。聖母の右に見える煙は、その煙にあたるという。この読みは、注文の契約で予定されていた聖ボナヴェントゥラに代わって、聖フランチェスコが描かれていることも説明する。ボナヴェントゥラは『大伝記』で、ヨハネが予言した第六の封印の天使を聖フランチェスコとみなした。東から上るその天使が携える救いの印がタウ、すなわちキリストの受難の十字架で、フランチェスコはそれを聖痕として身に受けていた。この解釈では、聖母が立つ台座は地獄の穴で、聖母はその口をふさいでいることになる。
技法・様式
館によれば、堅固で厳密な構図の中で、画家はラファエロの聖母子に典型的なピラミッド形の配置と、ミケランジェロに由来する記念碑的な人物とを、きわめて調和よく結びつけた。人物はレオナルドに連なる繊細なぼかしの色彩によってやわらげられている。若い頃にその工房に出入りしたヴァザーリは、アンドレアを「誤りのない画家」と呼んだ。館は、この絵がアンドレアの最初の円熟期の作で、様式の均衡、形の完成度、色の調和の傑作であり、ヴァザーリのその言葉の意味と、17世紀までフィレンツェで手本とされ続けた理由を伝えるとしている。
来歴
館によれば、本作はフィレンツェのサン・フランチェスコ・デ・マッチ修道院の修道女たちのために注文された。ヴァザーリは注文主を「サンタ・クローチェの小さき兄弟会の修道士」とし、館は、その人物で当時トスカーナのコンヴェンツアル聖フランシスコ会の管区長だったアントニオ・ディ・ルドヴィーコ・サッソリーニが、複雑な宗教的象徴を練り上げた可能性を挙げる。サッソリーニはサヴォナローラの説教を熱心に聴いた一人だった。絵はおよそ2世紀のあいだ修道院の教会の主祭壇を飾った。1683年にはすでにこの絵を望んでいたトスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチは、引き換えに修道院と教会の修理を求めた修道女たちの条件を受け入れ、大公の建築家ジョヴァン・バッティスタ・フォッジーニに工事を任せた。館の作品頁はメディチ家の収蔵を1704年頃とし、大公子がトスカーナの教会から持ち去った最後の祭壇画だったと述べる。館が Google Arts & Culture に寄せた解説は、1685年にメディチ家の収蔵となり、1785年にウフィツィに入ったとしている。
意義
館によれば、アンドレア・デル・サルトの様式は16世紀のフィレンツェの画家たちに大きな影響を与え、マニエラ(マニエリスム)の誕生に欠かせないものとみなされた。本作は、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロに学びながら独自の均衡に達した画家の到達点を示す作品である。同じ館にはレオナルドの《受胎告知》など、アンドレアが学んだ先人たちの作品も並ぶ。