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《東方三博士の礼拝》

Adorazione dei Magi
《東方三博士の礼拝》ドメニコ・ギルランダイオ
Wikimedia Commons / 捨て子養育院美術館 / Public domain 拡大して見る ⌕
PLATE
作者
ドメニコ・ギルランダイオ
制作年
1488–1489年
素材
板 / テンペラ・油絵具
寸法
285 × 240 cm
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列柱のある廃墟の馬小屋の前で、聖母が幼子を抱き上げ、ひざまずく老博士がその足に口づける。左右には着飾った人々が並び、手前には傷ついた二人の幼子と洗礼者ヨハネ、上には楽譜を持つ天使たちが描かれる。

概要

《東方三博士の礼拝》は、フィレンツェの画家ドメニコ・ギルランダイオが1488年から1489年にかけて描いた祭壇画で、フィレンツェの捨て子養育院美術館が所蔵する。館の記録では、板にテンペラと油彩で、縦285センチ、横240センチ。館の歴史によれば、もとは養育院に付属するサンタ・マリア・デッリ・インノチェンティ聖堂の主祭壇にあった。館は本作を、芸術としても物語としても並外れた価値をもち、養育院の歴史を多く語る作品だとしている。日本語版ウィキペディアによれば、下部の7場面のプレデッラ(祭壇画の台座部分)は、ギルランダイオの助手バルトロメオ・ディ・ジョヴァンニが描いた。

画面の読み解き

館によれば、注文主である養育院の院長フランチェスコ・テゾーリと、絹織物組合の有力者たちの肖像とみられる豪華な装いの人々が描かれ、画家は自画像を描き込んで作品に署名している。礼拝の場には、フィレンツェの守護聖人である洗礼者ヨハネと、絹織物組合の守護聖人である福音書記者ヨハネがひざまずき、幼児虐殺で殺された二人の幼い殉教者がともにいる。働く男たちの姿は、養育院の建設を示しているのかもしれないという。日本語版ウィキペディアによれば、聖母は三角形の構図の中心で幼子を抱き上げ、老いた博士がその足に口づける。左手の遠景には幼児虐殺の場面が描かれ、右の行列が通るアーチには1488年の年記がある。上方では4人の天使が、栄光の聖歌の楽譜を掲げている。

技法・様式

日本語版ウィキペディアによれば、本作はボッティチェッリやレオナルド・ダ・ヴィンチの《東方三博士の礼拝》の新しい試みを受け継ぎ、さらに広げたものとされる。屋根を支える石柱や崩れかけたレンガの壁は、キリスト教の到来によって衰える古い世界を象徴するとみられ、背景にはコロッセオなどローマの建物を思わせる都市と、船の行き交う湖の風景が広がる。行列の5頭の馬は、2枚の下絵に頭部の小さな変化を加えて描かれた。バーナード・ベレンソンらは、画面の一部をプレデッラの画家の手とみている。

来歴

日本語版ウィキペディアによれば、ギルランダイオは1485年10月28日に院長テゾーリと契約を結び、貴重な顔料を使うこと、工房任せにせず自ら描くこと、30か月以内に仕上げることが定められた。額縁は建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロの設計に基づいて注文されたが、プレデッラは1615年に切り離され、もとの額縁も1786年に聖堂の改装で祭壇画が外された際に失われた。館の歴史によれば、1890年に開かれた養育院の美術館は、その後、本作のような重要な作品を加えて広げられた。日本語版ウィキペディアによれば、1917年に美術館に移され、1971年にプレデッラと再び組み合わされた。

意義

館の歴史によれば、養育院は捨てられた子どもを受け入れるため、絹織物組合の後援で1419年に創設され、1445年2月5日に最初の女の子を迎えた。幼児虐殺の幼い殉教者と、養育院を支えた人々を礼拝の場に描き込んだ本作を、館が施設の歴史を多く語る作品とするのはそのためである。館はギルランダイオを、ボッティチェッリやデッラ・ロッビア一族と並ぶ収集の中心の画家に挙げている。同じ主題は、同時代のボッティチェッリの《東方三博士の礼拝》にも描かれている。