- 生没年
- 1441–1496年
- 国籍
- フィレンツェ共和国
- 様式
- 初期ルネサンス(フィレンツェ派)
ピエロ・デル・ポッライオーロ
フィレンツェの画家。兄アントニオの協力者として工房をともにし、商事裁判所のための《美徳》の連作などを描いた。晩年は兄とローマで教皇の墓碑の制作に加わった。
略歴BIOGRAPHY
生涯
イタリア人名事典(1966年、M. キアリーニ)によれば、1441年から1443年の間にフィレンツェで、ヤコポとトンマーザの6人の子の一人として生まれた。ロンドン・ナショナル・ギャラリーによれば、ポッライオーロ(鶏肉屋)の呼び名は、父の生業に由来する。兄アントニオとはおよそ10歳離れ、別々の道から出発した。兄は金細工師として、またギベルティの工房で彫刻家として修業し、ピエロは画家として、おそらくアンドレア・デル・カスターニョのもとで学んだ。事典は、カスターニョが1457年に没したことから、むしろ兄に学んだ可能性が高いとしている。事典によれば、ピエロは名高い兄に仕事の世話を受け、しばしばその協力者として働いた。晩年には兄に伴われてローマへ行き、教皇シクストゥス4世とインノケンティウス8世の墓碑の制作に加わった。1496年11月4日の兄の遺言はピエロを「病んで死に近い」と記しており、同年のうちに没したとみられる。兄とともにローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に葬られている。
様式
ナショナル・ギャラリーによれば、一般には兄アントニオがより偉大な画家とされ、絵画と彫刻の名声の基となった素描の力を培った。事典は、兄弟の共作の中で、より弱い部分にピエロの手が見えるとする見方を紹介している。同館の神話画《アポロンとダフネ》では、細やかな花や水面の映り込み、かすむ山並みといった細部の描写が見られる。
代表作
事典によれば、1469年に商事裁判所(メルカンツィーア)のための《愛徳》を描き、翌年に残りの美徳の連作を任されたが、《剛毅》はボッティチェッリが描いた(ウフィツィ美術館)。サン・ジミニャーノのサンタゴスティーノ聖堂の《聖母戴冠》(1483年)は、署名と年記があり、事典がピエロひとりで仕上げたと記す唯一の作品である。兄と共作した《聖セバスティアヌスの殉教》(1475年)は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある。
影響
ナショナル・ギャラリーによれば、兄弟の工房は絵画、彫刻、刺繍の図案、版画、七宝などを手がけ、アントニオの版画《十人の裸体の男の戦い》は15世紀で最大かつ最も影響力のある版画となった。ピエロはその工房の画家として、兄弟の仕事を支えた。