
アレクサンダー・エリアスベルク撮影の写真(1911年)
Wikimedia Commons / Public domain- 生没年
- 1879–1940年
- 国籍
- ドイツ(スイス生まれ)
- 様式
- 特定の流派に属さない(青騎士・バウハウスとかかわる)
パウル・クレー
1879年にスイスのベルン近郊で生まれ、1940年にロカルノ近郊で没した画家。ミュンヘンで活動し、バウハウスで教えた。同時代の運動に学びながら特定の流派には属さず、線と色の独自の世界を築いた。
略歴BIOGRAPHY
生涯
ツェントルム・パウル・クレーによれば、1879年12月18日、ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで、音楽教師の父と歌手の母のもとに生まれた。1898年にミュンヘンへ出て、画塾とアカデミーのフランツ・フォン・シュトゥックの教室に学ぶ。1906年にピアニストのリリー・シュトゥンプフと結婚してミュンヘンに住み、1911年には表現主義の集団「青騎士」の画家たちと知り合って、翌年の第2回青騎士展に17点を出した。1914年にはアウグスト・マッケらとチュニジアを旅する。1920年、画商ハンス・ゴルツがミュンヘンで362点の回顧展を開き、同年、ヴァルター・グロピウスに招かれて翌年からバウハウスで教えた。1931年にデュッセルドルフの美術アカデミーの教授となるが、1933年にナチスの圧力で職を追われ、ベルンへ移る。1935年から強皮症に苦しみ、1940年6月29日、ロカルノ近郊のムラルトで没した。スイスの市民権の申請が認められたのは、没後の7月5日である。
様式の変遷
同センターによれば、同時代の運動に強い関心を寄せながら独自の立場を保ち、特定の運動には加わらなかった。1912年にパリでキュビスムに触れ、チュニジアの旅で抽象と色彩の探究を深めた。ニューヨーク近代美術館によれば、1919年には油彩転写の技法を編み出している。1925年にはパリの最初のシュルレアリスムのグループ展にも出品した。ユダヤ博物館(ニューヨーク)によれば、晩年は明るい色調を捨て、ファシズムと病に向き合った作品を描いた。1939年だけで1253点を制作している。
代表作
《新しい天使》(1920年、イスラエル博物館)、《さえずる機械》(1922年、ニューヨーク近代美術館)がある。
影響
同センターによれば、その思考と制作は、世界中の後の世代に影響を与えた。ナチス政権は作品を退廃芸術とし、1937年に102点をドイツの美術館から押収して、うち15点を「退廃芸術展」で見せしめにした。