《ヴィーナスとマルス》
草地で、白い衣のヴィーナスが身を起こし、向かいに横たわるマルスを見つめる。マルスは裸に近い姿で深く眠りこけ、そのまわりでは子どものようなサテュロスたちが槍や兜で遊び、耳もとで法螺貝を吹く。
概要
《ヴィーナスとマルス》(英: Venus and Mars)は、イタリアの画家サンドロ・ボッティチェッリが1485年ごろに描いた板絵である。縦69.2センチ、横173.4センチの横に長い画面で、ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する。所蔵館によれば、結婚を祝って注文されたとみられる神話画で、珍しい形は、部屋の壁にはめこむ「スパッリエーラ」と呼ばれる板絵だったことを示す。
画面の読み解き
草地の空き地で、左に愛の女神ヴィーナス、右に軍神マルスが向き合って横たわる。ヴィーナスは桃色のクッションに身を起こし、金の縁取りのある白い衣をまとって、マルスのほうを見る。マルスは桃色のマントの上に、腰に小さな布を巻いただけの姿で寝そべり、頭をのけぞらせて深く眠る。所蔵館によれば、二人のあいだには子どものようなサテュロス(半分は子ども、半分は山羊)が4人入り込み、マルスの鎧で遊んでいる。一人は槍を持ち出し、兜をかぶって顔をすっぽり隠し、一人は肘の下の胴鎧にもぐり込み、もう一人はマルスの耳もとで法螺貝を吹く。マルスの頭のそばの木の穴からは蜂が群れ出ているが、彼は目を覚まさない。館は、法螺貝が海から生まれたヴィーナスのしるしで、遠くにその海がわずかに見えるとする。中央の奥には、緑の丘と淡い青空が広がる。
技法・様式
卵テンペラと油彩で、おそらくポプラの板に描かれる。所蔵館によれば、メディチ家の宮廷に出入りした学者や詩人と交わった画家は、古代の文献にもとづいたとみられる。古代ローマの作家ルキアノスは、アレクサンドロス大王とロクサネの結婚を描いた絵について、小さなキューピッドたちが大王の鎧で遊ぶ様子を書き残した。ボッティチェッリはキューピッドをサテュロスに替えており、メディチ家の子どもたちの家庭教師だった詩人アンジェロ・ポリツィアーノが同じころに書いた詩の「山羊の脚の小さなサテュロス」を知っていたのかもしれない。古代彫刻のように引き締まったマルスの体や、桃色の布に絡まった左足には、名高い古代彫刻《眠るヘルマプロディトス》への目くばせもうかがえるという。
来歴
所蔵館によれば、遅くとも1869年までに収集家アレクサンダー・バーカーがフィレンツェで買い、1871年にロンドンのバーリントン美術クラブで展示された。1874年6月6日のバーカーの収集の競売で館が買い取った。所蔵番号はNG915で、館の62室に展示されている。注文主はわかっていない。館は、蜂がイタリア語で「ヴェスパ」と呼ばれることから、画家の注文主でもあったフィレンツェの名家ヴェスプッチ家の名にかけた洒落かもしれないとする。女性のモデルを名高い美女シモネッタ・ヴェスプッチとみる説もあるが、彼女は1476年に没している。
意義
所蔵館によれば、マルスが裸でヴィーナスが衣をまとう対比は、絵の置かれた場所から説明できる。こうした板絵は、花婿の家の新婚夫婦の部屋「カメラ」に、肩の高さかそれより上に掛けられた。カメラは来客を迎える半ば公の場で、そこに掛ける絵は見事で、教養を示し、ときに楽しく、しかも場にふさわしくなければならなかった。ヴィーナスの三つ編みは衣に留められ、衣を脱げないようにしている。花嫁を重ねるなら貞節が欠かせなかったからである。美しい男性の体を見ると男の子を授かると考えられ、ヴィーナスの背後のギンバイカの茂みは結婚の伝統的なしるしだった。館は、愛が戦いに勝つというはっきりした主題を、画家がユーモアたっぷりに描いたとする。