《砂に埋もれる犬》
ゴヤが晩年、自宅「聾者の家」の壁に描いた〈黒い絵〉14点の一点。画面の下に小さな犬の頭だけがのぞき、その上は何もない広がりが占める。何に沈んでいるのかも、犬が何を見ているのかも示されない。
概要
《砂に埋もれる犬》(西: Perro semihundido)は、フランシスコ・デ・ゴヤが1819年から1823年頃、マドリード郊外の自宅の壁に描いた作品である。原題は「半ば沈んだ犬」の意で、日本語では《犬》とも呼ばれる。晩年の連作〈黒い絵〉14点の一点で、のちにキャンバスへ移され、現在はプラド美術館が所蔵する。
来歴
ゴヤは1819年、マンサナーレス川のほとりにあった屋敷を買った。前の持ち主にちなんで「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」と呼ばれたこの家で、1819年から1823年頃にかけて、一階と二階の二部屋の壁に直接14点の絵を描いている。注文でも展示のためでもなく、誰かに見せる当てのない仕事だった。1824年にゴヤはフランスへ移り、家は人手に渡る。1874年、プラド美術館の修復家サルバドール・マルティネス=クベルスが、壁の絵をキャンバスに移した。当時の所有者フレデリック・エミール・デルランジェ男爵は1881年にこれらをスペイン国家へ寄贈し、作品はプラド美術館に配された。所蔵番号はP000767。
画面の読み解き
画面の下三分の一ほどを、こげ茶色の斜面が斜めに横切る。その縁からのぞくのは、小さな犬の頭だけである。犬は顔を上げ、画面の右上へ視線を送っているように見える。残る広い面は黄土色で、絵具の濃淡と筆の跡が残るほかには何も描かれない。右上にはわずかに暗い形が認められるが、何であるかは定かでない。犬が何に沈んでいるのかも、何を見ているのかも示されず、地面と空の境も、奥行きも示されない。日本語の題は「砂に」とするが、原題は何に沈んでいるかを語っていない。
技法・様式
もともとは乾いた漆喰の壁に油彩で直接描かれたセッコの壁画で、大きさは131×79センチ。1874年に壁から剥がしてキャンバスへ移されたため、表面には傷みと修復の跡が残る。色は黄土、茶、黒に切り詰められ、この点は連作の全体に共通する。画面のほとんどを空白のままにし、主題を隅へ追いやる構成は、当時の絵画にほとんど例がない。館の解説は、輪郭の定まらないこの空間が見る者に強い不安を与えると述べている。
意義
〈黒い絵〉は、ゴヤが誰の注文も受けず、見せる相手も想定せずに描いた点で、西洋絵画のなかでも特異な位置にある。なかでも本作は人物も物語も持たず、犬の頭と斜面だけで成り立つ。20世紀に入ると、広い空白と最小限のモティーフという構成が抽象絵画に通じるものとして注目され、プラド美術館は本作を現代美術の象徴と呼んでいる。同じ連作の《我が子を食らうサトゥルヌス》とともに、ロマン主義の枠を超えて読まれ続けている作品である。