《トラファルガーの海戦》
煙と帆の渦巻く海戦のただなかに、巨大な戦艦がそびえ、折れた帆柱が海へ倒れかかる。手前の暗い波間では、水兵たちがボートで歓声を上げ、溺れる者を引き上げ、死んだ水兵が身をのけぞらせて浮かぶ。
概要
《トラファルガーの海戦》(英: The Battle of Trafalgar, 21 October 1805)は、イギリスの画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが1822年から1824年に描いた油彩画である。縦261.5センチ、横368.5センチのキャンバスで、画家の最大の作品である。ネルソン提督のイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を破った1805年の海戦を描き、ロンドン・グリニッジのクイーンズ・ハウスで展示されている。
画面の読み解き
所蔵館によれば、ターナーは戦いのさまざまな時点の出来事を、一つの象徴的な場面に組み合わせた。中央には、ネルソンの旗艦ヴィクトリーが、イギリスの海軍力のしるしとして実際より大きく描かれる。前の帆柱は折れて海へ倒れかかり、その帆柱にはネルソンの白い中将旗が掲げられている。主帆柱からは、有名な信号の最後の語で、提督の最期の言葉にもなった「義務(duty)」を綴る信号旗が降ろされつつある。致命傷を負ったネルソンの姿は描かれず、主帆柱のまわりの明るく照らされた人だかりが、それをほのめかすだけである。右には、ネルソンを撃ったフランス艦ルドゥタブルが降伏して沈みかける。手前のボートではイギリスの水兵が、背後の悲劇に気づかずに歓声を上げ、ほかの男たちは暗くうねる海から敵味方の別なく人を救おうとする。中央では、死んだ水兵が背をのけぞらせて画面の手前へ投げ出され、海面の下には、ネルソンの標語「Palmam qui meruit ferat」の断片がのぞく。
技法・様式
キャンバスに油彩で描かれる。所蔵館によれば、ターナーはこの絵のために異例なほど念入りな下調べをした。1805年12月にネルソンの遺体を乗せて帰国したヴィクトリーを写生していたうえに、海軍本部から艦の図面を借り、ポーツマスの海洋画家J・C・シェツキーにさらに素描を頼んだ。油彩の習作を2点描いたのも異例で、いずれもテートにある。批評家ジョン・ラスキンは1856年、ターナーの描く帆の手に負えない動きを「いくつもの雷雲」にたとえた。同時代の出来事を、大画面の歴史画として描いた作品である。
来歴
所蔵館によれば、本作はターナーが国王の命で描いた唯一の作品である。1822年の末、ロイヤル・アカデミー会長トマス・ローレンスの勧めで国王ジョージ4世が注文し、セント・ジェームズ宮殿の諸室を飾る、ド・ラウザーバーグの海戦画(1795年)の対作品とされた。1824年に納められると、時間の順序によらない描き方と、勝利の血の代償をほのめかす表現が宮廷の批判を招いた。1829年の末、国王はド・ラウザーバーグの絵とともに本作をグリニッジ病院の海軍美術館に贈った。1936年に海軍美術館が閉じると、グリニッジ病院の収蔵品のまま、新たに設けられた国立海事博物館に長期貸与され、2025年10月からはクイーンズ・ハウスの校長の客間と食堂に展示されている。所蔵番号はBHC0565である。
意義
所蔵館は、本作を画家の経歴で最大の、そして最も公に論議を呼んだ絵とし、ネルソンを敬愛したターナーの最も複雑な追悼とみる。手前の死んだ水兵は、提督と同じ代価を一介の水兵も払ったことを見る者の目の前に突きつける。ヴィクトリーの艦長だったトマス・ハーディら船乗りは技術の面から批判し続け、ターナー自身も宮殿で無償の11日間をかけて海軍関係者の意見に合わせて手直ししたことで絵が損なわれたと考えた。館は、本作が今も船乗りと美術史家のあいだで評価の分かれる絵だとする。