《窃盗偏執狂》
黒い背景の中に、乱れた髪と手入れされない髭の男が浮かび上がる。黒い上着に白い襟とスカーフをのぞかせ、暗い目は、こちらを見ずに画面の外を見つめている。
概要
《窃盗偏執狂》(英: Portrait of a Kleptomaniac)は、フランスの画家テオドール・ジェリコーが1820年から1824年頃に描いた油彩画である。縦61.2センチ、横50.1センチのキャンバスで、ベルギーのゲント美術館が所蔵する。精神病院に収容された人々を描いた10点の肖像の連作の一枚で、5点が現存する。
画面の読み解き
フランドル美術コレクションの解説によれば、黒い背景の前に若い男が座っている。うつろなまなざし、乱れた髪、手入れされない髭、固く結んだ唇が、男を実際より老けて見せる。黒い髪と黒い上着は背景に溶け込み、白い襟が目を引く。見る者の目は明るいスカーフから、暗い瞳に宿る二つの光へと移る。その光は、顔の左側をゆっくりと照らし出す光を映している。男は幻のように、別の世界、別の時代から現れる。artinflanders.be の解説によれば、連作の人物たちは理想化されてはいないが、一人の人間としての尊厳をたたえている。その中で本作だけは例外で、くしゃくしゃの髪と伸び放題の髭が荒々しい印象を与え、何より、一点を見すえながらまっすぐこちらを向かない強いまなざしに、心の混乱が表れている。
技法・様式
キャンバスに油彩で描かれる。所蔵館によれば、流れるような、暗示に富む描き方は「完成作」という考え方に別の見方を与え、習作としての作品に新しい価値を加えている。artinflanders.be によれば、しなやかで力強い肉づけと素早い筆づかいはジェリコーの晩年の作に特有のもので、本作は現実を注意深く観察して真実を求めるロマン主義の姿勢を示している。
来歴
所蔵館によれば、ジェリコーは当時、医師エティエンヌ=ジャン・ジョルジェと親しかった。ジョルジェは、狂気を神の罰ではなく治療すべき病とみる「精神科医(アリエニスト)」の一人で、彼らは一つの強迫観念や妄想として現れる心の病を「偏執狂(モノマニー)」と名づけ、患者の顔つきを型取りや素描、版画で記録した。フランドル美術コレクションによれば、連作はパリのピティエ=サルペトリエール病院で描かれ、画家の死から40年近くのちに、ドイツのバーデン=バーデンの屋根裏で、木箱の中に巻かれた状態で見つかった。本作は1908年、ゲント美術館友の会から寄贈された。所蔵番号は1908-F。
意義
所蔵館によれば、当時としては異例なことに、画家は収容された人の尊厳を重んじ、病む心にロマン主義者らしい共感を寄せた。フランドル美術コレクションは、物語や象徴から切り離して、モデルに伝統が拒んできた主体と個性を与えた点を評価する。画家の家系には狂気の歴史があり、自らもサロンに出した《メデューズ号の筏》の制作ののち抑うつに襲われていたことから、本作は比喩的には自画像ともいえるという。2025年にはアムステルダム国立美術館で、作家フィオナ・タンが本作を出発点に構成した展覧会に貸し出された。