《荒野のキリスト》
石だらけの荒野に、痩せた男が夜明けの光を背にして座っている。組んだ両手は固く握られ、視線は足もとに落ちている。クラムスコイが五年を費やして描いた、選択の前に立つキリストの姿である。
概要
《荒野のキリスト》(露: Христос в пустыне)は、イワン・クラムスコイが1872年に描いた油彩画である。縦184センチ、横214センチ。モスクワのトレチャコフ美術館が所蔵する。移動派を代表する一点で、伝統のイコンの型を離れ、キリストを生身の人間として描いた点に画期がある。
画面の読み解き
主題は「マタイによる福音書」第4章、四十日の断食と誘惑の場面による。ただし画面に悪魔は現れず、誘惑そのものも描かれない。痩せ衰えた男が冷たい岩の上に座り、裸足の足を土につけ、両手を組んで身を固めている。目は伏せられ、口は結ばれている。地平線は画面をほぼ二分し、下には影に沈んだ灰色の岩場、上には夜明けの淡い光が広がる。地上の冷たさと天の光の対比が、そのまま人物の内側の争いに重ねられている。
技法・様式
画家は構想に五年を費やし、友人の画家ワシーリエフに「もう五年のあいだ、彼は私の前に立ち続けている」と書き送った。1867年に縦長の画面で試みた最初の版は自らの意にかなわず、横長に改めて岩だらけの荒野を背景に据え直している。1869年の末にはドイツ、ウィーン、アントウェルペン、パリの美術館を回り、「自分のキリスト」を探した。色は灰と褐色に抑えられ、衣の暗い青と裾の赤だけが沈んだ画面に残る。細部は写実に徹しながら、背景の岩は形を曖昧にして人物へ視線を集める。
来歴
1872年秋の移動展覧会協会第2回展に出品され、印刷物に多くの反響を呼んだ。同じ年、パーヴェル・トレチャコフが画家から6,000ルーブルで買い取っている。所蔵番号651。トレチャコフはこれをロシア絵画の近年で最良の作と評した。クラムスコイ自身は「本気で取り組んだ最初の作で、涙と血で書いた」と述べている。
意義
神性を示す光輪も天使も置かず、選択を前にした一人の人間として救い主を描いたことは、当時のロシアで強い反響を呼んだ。トルストイはこれを自分の知るかぎり最良のキリスト像と呼び、一方でアレクサンドル・ベヌアは失敗と見るなど評価は割れた。宗教画を教義の図解から思想の場へ移した点で、19世紀ロシア絵画の転換点に置かれている。