
《聖母と聖女たち》(1509年、ルーアン美術館)に描き込まれた画家の姿とされる部分
Wikimedia Commons / Public domain- 生没年
- 1455–1523年
- 国籍
- ハプスブルク領ネーデルラント
- 様式
- 初期フランドル派
ヘラルト・ダヴィト
初期フランドル派の画家。オウデワーテルに生まれ、ハールレムで修業したのち1484年にブルッヘの画家組合の親方となった。ファン・エイクとメムリンクの技法を総合し、イタリアの要素と風景の描写を取り入れた。
略歴BIOGRAPHY
生涯
フランドル美術コレクションの年譜によれば、1455年頃、ゴーダに近いオウデワーテルに生まれた。生地はブルッヘの聖母教会にあった墓碑の記載から知られる。ハールレムで修業したのち、1484年にブルッヘの画家・鞍職人の組合の自由親方となり、これが経歴の最初の記録である。メムリンクの没後、ブルッヘのフラミング橋近くの画家の多い地区に住んだ。1498年から1499年には、ブルッヘ市から市庁舎の判事の間のための大きな板絵の報酬を受けた。1509年より前に金細工師の娘コルネリア・クノープと結婚し、乾いた木の聖母の信心会にも迎えられた。ジェノヴァの銀行家ヴィンチェンツォ・サウリの注文で多翼の祭壇画を描き、アントウェルペンの聖ルカ組合にも加わった。1523年8月13日にブルッヘで没し、聖母教会に葬られた。
様式
年譜によれば、ダヴィトはヤン・ファン・エイクの世紀である15世紀を技術と内容の両面で締めくくり、同時にすでに16世紀に立っていた画家である。神秘への宗教的な傾向と風景への関心ではヘールトヘン・トット・シント・ヤンスに近く、イタリア・ルネサンスとメムリンク、ファン・エイクの影響を受けた。フランドル美術コレクションによれば、職人としての画家から自覚的な芸術家としての画家への転換の鍵となる人物で、ネーデルラントで最も早くイタリア・ルネサンスの様式を取り入れた画家の一人でもあった。
代表作
ブルッヘ市庁舎のための二連画《カンビュセスの審判》(1498年、グルーニング美術館)は、画家の作品で唯一年記のある作である。自らと妻の姿を描き込み、ブルッヘのシオン修道院に寄進した《聖母と聖女たち》(1509年、ルーアン美術館)は、記録の残る唯一の作品とされる。
影響
年譜によれば、ダヴィトは、16世紀初めにヨアヒム・パティニールのもとで独立した分野となる風景画の発展に重要な役割を果たした。没後は長く忘れられたが、イギリスの記録研究家ジェームズ・ウィールが記録と作品を結びつけ、その作品は再び知られるようになった。