
自画像(アルテ・ピナコテーク)
Wikimedia Commons / Public domain- 生没年
- 1622–1654年
- 国籍
- ネーデルラント連邦共和国
カレル・ファブリティウス
1622年にミッデンベームステルで生まれ、1654年にデルフトで没したオランダの画家。レンブラントに学び、デルフトで明るい背景の画面や遠近法の工夫を見せたが、火薬庫の爆発で32歳で亡くなった。
略歴BIOGRAPHY
生涯
ライデン・コレクションの伝記によれば、1622年2月27日、アムステルダムの北の村ミッデンベームステルで洗礼を受けた。教会の堂守で教師でもあった父は余暇に絵を描き、最初の手ほどきは父から受けたとみられる。1641年に結婚したのちアムステルダムへ出て、レンブラントのもとで修業を終えたが、1643年春に妻を亡くして村へ戻り、師の近くにいたのは長くても20か月ほどだった。1650年にデルフトへ移り、2年後の1652年に同地の聖ルカ組合に加わった。1654年10月12日、町の3分の1を壊した火薬庫の爆発に巻き込まれて亡くなり、2日後に旧教会に葬られた。
様式の変遷
ロンドン・ナショナル・ギャラリーによれば、レンブラントの弟子のなかで最も革新的な画家だった。最初期の《ラザロの蘇生》(1643年頃)はまだ師の作風に近いが、伝記によれば、1646年頃の作では色と光の扱いで師から離れていく。デルフトでの作品は、冷たい光や、明るい背景の前の暗い人物、光学への関心でフェルメールに通じる。薄いグレーズと部分的な厚塗りを組み合わせて、奥行きや質感を表した。
代表作
マウリッツハイス美術館の《ゴシキヒワ》(1654年)、シュヴェリーンの州立美術館の《歩哨》(1654年)、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの《デルフトの眺め》(1652年)が知られる。
影響
伝記によれば、確かに彼の作とされる絵は13点しか残らない。同じくレンブラントに学んだサミュエル・ファン・ホーホストラーテンは、奥へ退いていく眺めを描く才を称え、デルフトの家々に大きな遠近法の壁画を描いたと記した。そうした壁画が住み手の交代とともに失われたことも、作品の少なさの一因とされる。