《灰色と黒のアレンジメント No.1》
1871年にロンドンで描かれた、ホイッスラーの母アンナの肖像。灰色と黒の狭い色幅と、水平と垂直だけでできた画面構成が、人物を画面の中の一つの形として見せる。「ホイッスラーの母」の名で広く親しまれている。
概要
《灰色と黒のアレンジメント No.1》(英: Arrangement in Grey and Black No. 1: Portrait of the Artist's Mother)は、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーが1871年にロンドンで描いた油彩画である。画家の母アンナ・マクニール・ホイッスラーを横向きに座らせた肖像で、「ホイッスラーの母」の通称で広く知られる。オルセー美術館が所蔵し、アメリカ国外にあるアメリカ絵画として最も名高い一点とされる。
来歴
母アンナは、当時チェルシーのチェイニー・ウォーク96番地で息子と暮らしていた。本作は1872年のロイヤル・アカデミー展に第941番「灰色と黒のアレンジメント:画家の母の肖像」として出品されたが、落選寸前だったと伝えられ、これを最後にホイッスラーはアカデミーへの出品をやめた。当時の観客は肖像画が「アレンジメント(配置)」と題されることを受け入れず、説明のための副題が加えられて、やがて「ホイッスラーの母」と呼ばれるようになる。本作を見たトマス・カーライルが同じ形式の肖像を承諾したため、そちらが「No.2」となり、本作は「No.1」と呼ばれることになった。画家は一時この絵を質に入れていたが、館の記録によれば1891年にフランス国家が画家本人から買い上げ、リュクサンブール美術館に収めた。所蔵番号は RF 699。
画面の読み解き
アンナは黒いドレスに白いレースの室内帽をかぶり、白いハンカチを持った両手を膝の上で重ねて、横顔を見せて椅子に座る。足元には低い足台が置かれる。背後の壁は灰色一色で、左には小花と蝶を散らした暗いカーテンが縦に垂れ、その上に画家の署名がわりの蝶の記章が見える。壁には画家自身がテムズ川を描いた版画が額に入って掛かり、右端にも別の額の縁がのぞく。壁と床の境、カーテン、額の縁がつくる水平と垂直の線が、画面を長方形に区切っている。人物は視線を絵の外へ向けたまま動かず、物語らしい出来事は何も起こらない。
技法・様式
キャンバスに油彩で、大きさは144.3×163センチ。黒、灰色、白という狭い色幅だけで描かれ、色の対比ではなく調子の微妙な差で形がつくられる。絵具は薄く均一に置かれ、筆跡はほとんど残らない。人物も家具も画面と平行に配され、奥行きはごく浅い。この平面的な構成と余白の扱いには、画家が早くから集めていた浮世絵の影響が指摘される。館の解説は、版画の制作で培われた線の厳しさと、中間色に抑えた色づかいが、写実から様式化へ向かう転機を示すと述べている。
意義
ホイッスラーは著書の中で、この絵は自分にとっては母の絵として興味深いが、世間が描かれた人物の身元を気にする必要はない、と書いた。主題を語ることより画面の調和を優先するこの立場は「芸術のための芸術」と呼ばれ、唯美主義の主張そのものである。皮肉にも本作は、20世紀のアメリカで母性の象徴として親しまれ、1934年には母の日にちなむ記念切手の図柄になった。美術史家マーサ・テデスキは、本作を《モナ・リザ》や《叫び》と並ぶ、美術館の外へ出て大衆文化の一部となった稀な絵と評している。