《髭のない自画像》
髭のない顔の画家が、体をやや斜めに向けて胸から上を見せている。頬はこけ、口は固く結ばれている。淡い青緑の背景の前に、青い上着と橙色の髪が浮かび上がる。
概要
《髭のない自画像》(仏: Portrait de l'artiste sans barbe)は、フィンセント・ファン・ゴッホが1889年9月に描いた油彩画である。縦40センチ、横31センチ。南仏サン=レミ=ド=プロヴァンスの療養院で描かれ、画家が母アンナへの誕生日の贈り物とした。現在は個人が所蔵する。同じ月に描かれた《自画像》(オルセー美術館)とともに画家の最後期の自画像にあたり、どちらが最後の一点かについては研究者の見方が分かれている。
画面の読み解き
胸から上を、体をやや左へ向けた斜めの角度でとらえている。髭はなく、頬はこけ、口は固く結ばれている。目はこちらへ向けられているが、まぶたは重く、目の下には緑がかった影が差す。後ろへなでつけた髪は、橙と黄の短い筆で描かれる。服は青い上着で、襟もとに白いシャツがのぞき、胸にはボタンが一つ見える。背景は淡い青緑で、縦に走る筆の跡が画面を満たしている。
技法・様式
顔は黄と橙を基調に、頬やこめかみ、目のまわりに緑と青の筆を重ねて影をつくる。補色どうしを隣り合わせて響かせる、サン=レミ時代のポスト印象派らしい色づかいである。背景と上着はともに青の系統で塗られ、橙の髪と顔だけが画面から浮き出る。絵具は短い筆触で盛り上げるように置かれ(インパスト)、形をなぞる筆の向きが、そのまま頬の丸みや髪の流れを表している。同じ月のオルセー美術館の《自画像》では背景の筆触が渦を巻くのに対し、本作の背景は縦の筆でおだやかに塗られ、小さな画面に静かにまとめられている。
来歴
画家は1889年9月19日の母への手紙で、近いうちに母と妹ヴィルに絵を送ると書いた。ファン・ゴッホ美術館の書簡集の注によれば、9月末までに母と妹のための油彩を5点仕上げており、本作はその一点である。9月28日の弟テオへの手紙では、これを「小さな自分の肖像」と呼んでいる。同じ注は、画家が母と妹のために描いた《寝室》(オルセー美術館)の壁に、この肖像を描き込んだことも指摘している。その後、所有者を替え、1998年にニューヨークの競売で7150万ドルで落札された。
意義
ファン・ゴッホは40点あまりの自画像を残したが、その多くは髭をたくわえた姿で、髭のない顔を描いたものは少ない。本作は、夏の発作から回復して制作を再開した時期に、療養院の外にいる家族に向けて描かれた、私的で小さな肖像である。自己を点検するように描かれたオルセー美術館の自画像と並べると、同じ月の同じ場所で、画家が二つの異なる顔を残したことがわかる。