《イネス・モワテシエ夫人の肖像》
- 作者
- ドミニク・アングル
- 制作年
- 1856年
- 素材
- キャンバス / 油絵具
- 寸法
- 120 × 92.1 cm
- 所蔵
- ロンドン・ナショナル・ギャラリー (NG4821)
- 時代
- 写実・印象派
- 流派
- 新古典主義
薄紅の長椅子に、花模様の絹のドレスをまとった黒髪の女性が座り、右手の指先をこめかみに添えてこちらを見つめる。腕には宝石の腕輪が光り、背後の暗い鏡には、その横顔が映っている。
概要
《イネス・モワテシエ夫人の肖像》は、フランスの画家ドミニク・アングルが1856年に完成させた油彩の肖像画で、ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する。縦120センチ、横92.1センチのキャンバスで、署名と年記、銘がある。所蔵館によれば、1842年にマリー・クロティルド=イネス・ド・フーコーが裕福な銀行家シジスベール・モワテシエと結婚したのを記念して、1844年に注文された。アングルは初め引き受けるのをためらったが、23歳の夫人に会って「美しく善良」と評し、心を変えたという。それでも完成までに12年を要した。
画面の読み解き
所蔵館によれば、第二帝政期の贅沢と流行を体現する夫人が、最上の衣装と宝飾を身につけ、堂々とこちらを見つめている。頬杖のようなポーズは、ヘルクラネウムで出土した古代ローマの壁画《ヘラクレスと息子テレフォス》に座るアルカディアの女神の手の形を借りたもので、アングルは1814年にナポリでこの壁画を見たとみられる。部屋には日本の伊万里焼の壺、絹の手持ちの火よけ、扇、ルイ15世様式の卓、金の額縁の鏡、ダマスク織の長椅子が置かれ、長椅子の背には小さなキューピッドがのぞく。
技法・様式
所蔵館によれば、制作の間に流行が変わったため、アングルは衣装を何度も描き替え、暗い色、黄色のドレスを経て、リヨンの絹の花柄のドレスに落ち着いた。前年に登場したばかりのクリノリンがスカートを大きく広げ、布地を存分に見せている。宝石は琺瑯のような滑らかさで描かれる。初めは4歳の娘カトリーヌを膝に寄りかからせる構想だったが、子どもがじっとしていないために消し、カンヴァスを木枠に張り直して夫人を中央に移した。背後の鏡の映り込みは、夫人の位置と合わない横顔で、キューピッドも映っていない。所蔵館は、こうした空間の「歪み」をアングルの意図的な操作とみている。
来歴
所蔵館によれば、本作は1867年と1921年のパリのアングル展に出品された。1936年、夫人の子孫でボンディ子爵夫人の相続人から、画商ジャック・セリグマンを通じて同館が購入した。画家自身が意匠を考えた当初の額に収まり、現在は同館の第38室に展示されている。完成を待つ間の1851年には、黒い舞踏服で暖炉の前に立つ別の肖像が描かれ、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されている。
意義
所蔵館によれば、本作は、華やかな見せ場、並外れた技術、複雑な構図、人物の存在感を兼ね備えた、アングル晩年の様式の好例である。アングルは「みじめな肖像画」の依頼が多く、より重要と考える歴史画や寓意画に打ち込めないと嘆いていたが、本作では同時代の肖像に古典の形と引用を組み合わせた。所蔵館は、夫人がアングルにとって古典の理想を生きて体現する存在だったと述べている。