《1791年5月3日憲法》
石畳の通りに群衆があふれ、中央では白い服の議長が人々に担ぎ上げられて憲法の文書を高く掲げる。左では赤い王のマントの国王が教会の階段へ向かい、右奥には王宮の時計塔がそびえる。足もとには、反対派の議員が倒れ込む。
概要
《1791年5月3日憲法》(波: Konstytucja 3 Maja 1791 roku)は、ポーランドの画家ヤン・マテイコが1891年に描いた油彩画である。縦247センチ、横446センチの大画面で、ワルシャワのワルシャワ王宮が所蔵する。ポーランド・リトアニア共和国が1791年に採択した5月3日憲法の100周年を記念した歴史画で、画家の最晩年の大作の一つである。
画面の読み解き
ポーランドの公的な文化機関アダム・ミツキェヴィチ研究所の解説によれば、描かれているのは、憲法を採択した議員たちが王宮を出て、聖ヨハネ通りを聖ヨハネ参事会教会へ向かう行進である。教会では国王が憲法への誓いを改めて立てることになっていた。奥には、議員たちが出てきたばかりの王宮が見える。中央では、白っぽい服に灰色のかつらの議長スタニスワフ・マワホフスキが二人の議員に担がれ、右手で憲法の文書を掲げ、左手に議長の杖を持つ。文書の背後の共和国の紋章旗を支えるのはタデウシュ・コシチュシュコで、頭の血のにじむ包帯は、3年後のマチェヨヴィツェの戦いでの負傷を予告する。行列の先頭では、王のマントの国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが教会の階段を上り、芝居がかった身ぶりで両手を差し出す。手前では、反対派の議員ヤン・スホジェフスキが幼い息子をつかんで倒れ、ポケットから賭け札が石畳に散る。
技法・様式
キャンバスに油彩で描かれる。同研究所の解説によれば、マテイコは1890年12月に油彩の下絵(ワルシャワ国立美術館)で構図を決め、1891年1月半ばにモデルからの素描を始め、2月に人物の輪郭をキャンバスに移した。3月初めまでに衣装と装身具を描き上げ、最後に最も大切な顔を描いた。教会と王宮の写真をワルシャワから送ってもらい、建物の細部を補った。画家の娘や友人がモデルになり、多くの人物は古い肖像画や版画から写した。画家は18世紀の衣装の色を「弱々しい」と嫌い、かつらは「おぞましい」とこぼしている。
来歴
同研究所の解説によれば、憲法100周年の1891年5月3日には、まだ仕上がっていなかったが、下塗りで細部まで見て取れる状態の絵が、クラクフの織物会館で1日半、無料で公開された。完成は同年10月10日である。1892年4月、マテイコは自らルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)へ赴き、絵をガリツィア議会に引き渡したが、将来は採択の場であるワルシャワの王宮に掛けられることを望んだ。ポーランド語版ウィキペディアによれば、第二次世界大戦中はホトムフ村に隠された。日本語版ウィキペディアによれば、戦後はワルシャワ国立美術館に移り、1984年から王宮で展示されている。
意義
同研究所によれば、マテイコは国の大きな記念の年に合わせて歴史画を描くことが多く、本作もその一つである。行進には、実際にはその場にいなかった人物や、のちの出来事を予告する姿も描き込まれている。日本語版ウィキペディアは、画家が共和国の最後の時代をこの一枚に集約したとし、制作当初は人物が多すぎて構成がわかりにくいと批判されたが、今日ではマテイコの代表作として、ポーランドの歴史教育にもよく用いられる。画家は翌々年の1893年に没した。