- 生没年
- 1539–1610年
- 国籍
- 日本
- 様式
- 桃山時代の水墨画・障壁画(長谷川派の祖)
長谷川等伯
1539年に能登の七尾で生まれ、1610年に江戸で没した安土桃山時代の絵師。狩野永徳と並び称され、水墨画の《松林図屏風》で名高い。長谷川派の祖。
略歴BIOGRAPHY
生涯
東京国立博物館によれば、現在の石川県七尾に生まれ、初めは仏画を描いていたが、のちに京に上り、画壇の頂点に上り詰めた。日本語版ウィキペディアによれば、能登の畠山氏に仕える奥村家に生まれ、染物業を営む長谷川宗清の養子となった。初めは信春と号し、七尾で日蓮宗の仏画や肖像画を描いた。1571年ごろ妻子を連れて上洛し、千利休らと交わって中国の宋・元の絵画に触れた。1589年に大徳寺三玄院の水墨障壁画を描いて名を上げ、このころから等伯と号した。1591年には長谷川派を率いて祥雲寺(現・智積院)の障壁画を手がけ、豊臣秀吉に認められた。1593年に跡継ぎと見込んだ息子の久蔵を亡くしている。1604年に法橋、翌年に法眼に叙せられ、1610年、徳川家康の求めで江戸に下った直後に没した。
様式
東京国立博物館によれば、等伯は中国・南宋の画僧牧谿に私淑し、その水墨技法による自然描写、とりわけ大気の表現を学んだ。文化庁の国指定文化財等データベースは、狩野永徳と並び称される絵師とする。日本語版ウィキペディアによれば、金碧の障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、晩年には雪舟から5代目を意味する「自雪舟五代」を落款に冠した。
代表作
《松林図屏風》(16世紀、東京国立博物館、国宝)は、日本の水墨画の最高峰ともいわれる。日本語版ウィキペディアによれば、ほかに祥雲寺の障壁画(智積院、国宝)、《竹林猿猴図屏風》(相国寺)がある。
影響
日本語版ウィキペディアによれば、等伯を祖とする長谷川派は、狩野派に並ぶ存在となった。久蔵、宗宅、左近、宗也の4人の息子も絵師となったが、等伯の没後には優れた画家が出なかった。等伯が語った画論を本法寺の日通が書き留めた『等伯画説』は、日本で最も古い画論とされる。