
《自画像》1668年頃、キャンバスに油彩、マウリッツハイス美術館
Wikimedia Commons / マウリッツハイス美術館 / Public domain- 生没年
- 1617–1681年
- 国籍
- オランダ
- 様式
- オランダ黄金時代の絵画
ヘラルト・テル・ボルフ
1617年にズヴォレで生まれ、1681年にデーフェンテルで没したオランダの画家。肖像画と風俗画を描き続け、サテンの布の輝きを描き分ける腕前と、読み解きの定まらない静かな室内の場面で知られる。
略歴BIOGRAPHY
生涯
アムステルダム国立美術館の所蔵品目録の画家伝(ヘルブラント・コレファール執筆)によれば、1617年12月末、ズヴォレに、画家でもあった同名の父の子として生まれ、父に絵の手ほどきを受けた。1634年頃からハールレムの風景・風俗画家ピーテル・デ・モレインに学び、1635年に同地で最初の署名と年記のある絵を描いて、聖ルカ組合に加わった。ロンドンに短く滞在し、スペインの宮廷で国王フェリペ4世の肖像を描いたとも伝えられる。1645年末、スペインとの和平交渉に臨む共和国の代表団を追ってミュンスターに赴き、参加者たちの肖像を描いた。1653年にはデルフトでヨハネス・フェルメールとともに公証文書の証人として署名している。1654年にデーフェンテルで結婚して同地に住み、市の役職も務めて、1681年12月8日に没した。
様式の変遷
同画家伝によれば、生涯を通じて肖像画と風俗画の画家であり、デーフェンテルではカスパル・ネッチェルらを弟子とした。館は、布地、とりわけサテンを正確に描き分ける腕前と、人物の気持ちが読み取りにくい曖昧な場面への好みを、その特徴に挙げる。
代表作
《意味ありげな会話》(1654〜1655年頃、アムステルダム国立美術館)、同館の《鏡の前の女》(1652年頃)、ミュンスターの和平会議の調印式を描いた《ミュンスターの和約の批准》(1648年)が知られる。
影響
館の目録によれば、複数の読みを誘う曖昧さは、1650年代から1660年代の彼の風俗画の本質とされ、意味を幾重にも重ねる手法は、ヤーコプ・ダックやフェルメールら同時代の風俗画にも見られる。日本語版ウィキペディアによれば、《意味ありげな会話》はすぐに評判となり、ほかの画家による写しが少なくとも24点ある。